死刑、恐い、でも…。

先日、三件の死刑執行があったと報道されました。

久しぶりに死刑の執行という言葉を聞いたので、なにやら複雑な気持ちになり、このブログを書いてます。

実際、この三人の死刑囚の犯した罪は全く赦される余地のないもので、ご遺族のかたの気持ちを考えるとこの執行に正直全く同情は出来ません。

しかし、死刑執行の役割を担う刑務官のプレッシャーやストレスも相当あるようで、首に縄をかけたり、執行ボタンを押したり、遺体を処理したりする事のやりきれなさや、「元気でな」と言って別れられないカタルシスのなさなどが、彼らを取材した記事などから読みとることが出来ます。

殺人はよくない(死刑になるのはほぼ殺人罪)と言っておきながら、死刑という殺人を認めるのも矛盾しているし、また、冤罪の可能性や、国際的な世論も諸手を挙げての死刑賛成論に傾く事を躊躇させます。

かといって、終身刑もこの国の財政から許されるか。

一般的な刑務所入所者の年間当たりの費用は約270万円だそうです。

270万円なんて、今時の地方の非正規労働者の年収以上ですよ!

懲役の収入だけで入所者は食べていけないそうです。

死刑もだめ、刑務所での終身刑も困難だとすると、他にどんな手段があるの?

ある日上記の話題が家族の会話でのぼったことがありました。

私は、江戸時代にあった島流しを提案しました。ある一定期間食いつなげる食料と、野菜や穀物の苗、鍬などの農作業ツールのみ持たせて絶海の孤島に送るのです。そこは市民権などないサバイバルワールド。食料など援助無し、自給自足生活です。死刑判決が下されるような人物ばかり集めた場所で、自分が命を狙われるかもしれないという恐怖と隣り合わせで生活します。

そして、いかに自分は自己中心的な欲望でもって人を殺めたか認識し、譲り合って生きていくことを学ぶのです。そしてある一定期間生き延びた人は帰ってくることが出来る。

なんて事を滔々と述べたら、非現実的過ぎる、と一笑に付されました。 

確かにそうだけど、恐い体験て一番のストッパーになると思うのですが。

とにかく、罪を犯す前に、その悪意の矛先かま自分に向けられたときの恐怖を想像出来る力を養いましょう。